うみゆり日記(新)

錦見映理子の日記です

リトル・ウィメン

てちの誕生日まで明日であと1週間!!!

今朝の「はね駒」、ついにおみつが亡くなってしまった。18歳で。家のために個人がいかに殺されていくかを、朝ドラで当時こんなにも描いていたとは。そして基本的に今もあまり変わっていないような気がすることに、愕然としてしまう。ていうか、またひどくなっているのかな。違う形で、個人がころされている。

こうして仕事の前や終わった後に日記を書くのが習慣になりつつあるが、これも引きこもり生活中だからできた習慣であって、急いででかける用がなくなったからだ。しかし一体自分はなぜ週に何度もあんなに慌てて家を出るような用事があったんだろう?

ほとんどが不要不急でできていた日常だったのだろう。当時はどうしても必要だと思って忙しい思いをしながら出かけていたはずだったのだが。必要、とは一体なんだろうと思うこのごろ。

ゆうべお風呂で本を読みながらぼんやりしていたら、ふいにやっぱり最後のところ(小説)書き直した方がいい、というひらめきが湧いて文章が頭に流れ始めたので、忘れないように唱えながら髪を洗って急いで出て、リビングで充電していたPCを開いて、書いてから寝た。昨日決意したように、早く寝た。明け方に目が覚めて(暑くて)、このまま起きるか、でもそうするとまた寝不足になる、と迷っているうちにまた眠ってしまい、起きてみると目覚ましが止められていて、合計8時間半も眠ってしまっていた。

がーん。なんで早寝するたびに早起きに失敗していつも通りの時間に起きてしまい、単に長く寝るだけになってしまうのだろうか。でもだいぶ疲れが取れたから良しとする……するしかない……。

明日のラジオの台本が来るまで、ゆうべ書き直し始めた部分を続けて書く。しばらく忘れるつもりだったのに、お風呂でなぜふと思いついたのか。脳って不思議。しかしどこかであれじゃダメと思っていたのも事実だからよかった。やっとこれで本当に終わるのかな。そうだといいな。コロナのせいで、この小説が出してもらえるかわからなくなったような気もするが。もっとシビアでつらい話が増えていくのかもしれない。でも、オルコットは「悩みが多いから、私は楽しい物語を書く」と記した。映画「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」の冒頭にこの言葉が出てきたとき、そうなんだよ、とものすごく思った。人の言葉にここまで共感を抱くことはないので、非常に珍しい。


『リトルガールズ』というタイトルは、ヴィヴィアン・ガールズ(ヘンリー・ダーガーの)をまずイメージしたのと、『リトル・ウィメン』のことも思ってつけた。ガールズという言葉を取り戻したいと思ったのだ。日本語の「女子」とか「女子供」といった蔑視の含まれた言葉も。ピンクやパステルカラーやレースやフリルなど、女の属性として馬鹿にされないように大人になったら隠さなくてはならなかったことを大切にしているひとりひとりの人間を書きたかった。

いま書き終えようとしているものも、言葉の思い込みに右往左往する人々の話だ。知らない人たちによって思いこまされた言葉が、本当はどんなものなのか確かめたい。