うみゆり日記(新)

錦見映理子の日記です

彼女(たち)について私が知っている事は何もない、けれど

昨日、ネット上の或る評論を読んでいたら、女性アイドルグループ(固有名が出ていた。坂道ではない。)のひとたちみんな人形に見える、というような一文がいきなり出てきて驚いた。人形の出てくる文学作品についての論で、人形は非人間的でこわいという話の流れだった。興味深い論評だったけれど、この一文がこの流れで必要なのかは私には不明だった。非人間的なもののモデルとして、なぜ人間である女性のアイドルグループ名を出さねばらないのか?そんな必要ある?と思ったのだった。その文そのものが彼女たちを人形化しているような気もした。

同じ服を着ている女性アイドルたちがみんな同じ顔に見えるのは興味がない人には当たり前かもしれないけれども、当然ながら彼女たちは人形ではなく、一人一人別の顔を持った別の人間である。

こういう、女性アイドル=誰かの言いなりで自分の意思のないお人形さんとして扱われている人、みたいな見方が、てちがいきなり目に飛び込んできた2017年末以来、私は以前よりずっと気になるようになった。

自分の中にもそういう決めつけがかなりあったと思う。

だからこそ、てちを好きになってしまってから一ヶ月ほど、夢中で過去の映像やら記事やらを大量に漁りながら、私が何を必死で探っていたかというと、彼女の意思はどのくらい反映されているのかということだった。

幸い、その頃彼女が映画撮影に入ってグループ活動から一時離脱していたことが間もなくわかったので、インタビュー等からも、仕事の選択が彼女に任されていること、センターでも離脱する自由があること、無理矢理両立させられることはないのだということがわかり、他にもさまざまグループ活動の中に、予想以上に個人の意思が反映されているらしいことがわかってきた。

たぶん私は、初めて見たとき、てちがお人形に見えないことにびっくりしたのだろう。こんな顔をして大舞台に出てくるアイドルがいていいのか、と思った。こんなに生々しく、人間であることを表に見せてしまっていいのだろうか。これは仲間だ、と直感した。何かを創作する天才にこういう人、いる。見たことある。何らか軋轢と戦っている人。○○ちゃん(知人の物書き)に初めて会ったときのインパクトに似てる、と思った。

愛想を振りまかない、女性アイドルグループのセンター。

彼女を中心とする欅坂46に対するバッシングや違和感の大半は、自分のイメージ通りのアイドルではないことによるものである気がする。女性アイドルは基本お人形のようなものであるべきと思っている人たちにとっては、鋭い目つきで、顔がよく見えず表情が読み取れず、全く愛らしく振る舞わないアイドルグループセンターは気に入らないだろう。また、仕事の選択を自分の意思によって行えるとは思わないだろう。しかもその選択が、時には現場で軋轢が起きることも厭わず、グループで表現する作品を最優先に考えた結果だったりするとは、想像もしないだろう。だからたびたび、誤解が起きる。

意思のない人形、みたいなアイドル像と、てちがセンターの欅坂46は違って見えた。

時にはファンの中にも、それが気に入らない人もいたかもしれない。なんで自分が足を運んだ現場に推しが当日になって急にいないのか。なぜ完璧なパフォーマンスを見せないのか。せっかく仕事を休んでお金を払って来たのに。という気持ち。わかる。とてもよくわかる。けれど、相手は人形ではなく人間なのだ。

想像する。なぜ顔をよく見せてくれないのか。なぜあんな表情をしたのか。なぜ今日来られないのか。なぜ昨日とは違うステージになったのか。どんなに想像しても、ファンである私たちには本当のことは何もわからない。

声援を送る人たちが、同じ声でバッシングをしてくること。そのアンビバレントを四六時中全身で浴び続けること。人形ではなければどれだけ苦しいことだろう。

意思を貫けばワガママと言われ、意思を押し殺せばお人形と言われる。どうしろって言うの?

欅坂46のドキュメンタリー映画中に、彼女は苦しそうな顔を何度か見せた。しかし彼女は映画の中で語ることを選ばなかった。それによって映画は、はからずも、主人公が内面を一切見せないハードボイルド映画になった。彼女が人形に見えるひとたちには、裏であんな苦しそうな状態を見せること、それでもステージに立つことに、違和感を持つだろう。無理させなければいいのに、とか。人形だったら、操る人がいるはずだから。

だけど、少しも無理をしない表現なんてあるんだろうか。

彼女は人形ではなく、どうするかは最終的に彼女の選択と意思。私はあの映画を観るまでに、そう思えるようになっていた。欅坂46がなくなる頃になって、やっと。

偏見を持っていたらそのようにしか彼女たちを見ることはできない。そういう意味でアイドルは偶像であるのだろう。メディアに出ることは人の勝手な欲望や願望を押しつけられることでしかない。理解なんかできるわけがない。何もわからないし何も知ることはできない。ただ、彼女が自分の意思で伝えたいと思ったものを見て、その度にかっこいいと感じ、心をふるわせたこと。それだけが真実だった。

ただひたすら見つめ続けた。それだけしかできなかった。いま生きている人間である彼女を。そんな数年間を過ごしたことを、私は長く忘れないだろう。