うみゆり日記(新)

錦見映理子の日記です

シスターの思い出

シスターみたいな生活だ、と朝ご飯を食べながらふと思った。

どうしても出かける用事がない限りずっと家にいて、長い外出は週に一度だけ。楽しみは書店に行くことくらい。仕事で不特定多数に向かってたまに話したり書いたりする。そんな、今の自分の暮らし。

大学の頃にしか接したことはないので、シスターのような生活といってもそこで見聞きした淡いイメージでしかないのだけれども。

シスターたちが住んでいる場所は、教室のある建物の中にあった。彼女たちはほとんど大学の外に出ないのだ、という噂があった。電車の乗り方も知らないとか、切符も買えないらしい、とかいう話もよく聞いた。

日本人のシスターは取り立てて変わったところはなかったけれど、英語で講義をする外国人のシスターたちの中には、日本語をまるで話せない人が結構いた。あの人たちは、派遣されて日本に来ていたのかな。よく知らない、言葉もわからない、小さな東洋の島国に行けと命令されて、そこでみんな同じような黒い髪の、顔もみんな同じに見える女子たちに、英文学とかキリスト教学とか教えていたのかな。

私は日本史専攻だったから、ほとんどそうしたシスターと接点はなかった。けれど、教養学科だった一年生のときだけ、必修でなぜか英語しか話せないシスターの担当クラスに割り振られてしまい、英文科志望の同級生達に混じって、受験が済めばもうやらなくていいのかと思っていた英語を毎週徹夜で勉強することになった(宿題が毎回あり)。

いつも眉間に皺を寄せ、にこりともしない恐い先生だった。私は毎回遅刻ギリギリに教室に駆け込むために名前をすぐに覚えられてしまい、何かと言うと「エリコ!!」と厳しい声で呼ばれ、質問に答えられないとあれこれ怒られるのだったが、いつも半分くらい何を言ってるか私には聞き取れなかった。今思えば、あのクラスに振り分けられる前に受けた試験で、ボーダーぎりぎりで英語が得意な子たちに紛れて入ってしまったんだろう。完全な劣等生だった。日本人の英語の先生のクラスの子たちが楽しそうにしていたのが羨ましかった。私は英文科に行くつもりじゃないのに、日本史がやりたくて大学に入ったのに、と思いながら、恐いシスターの英語の授業がある水曜の前日にはバイトも約束も入れずに必死に勉強して、一年を過ごした。

二年になってから専攻が決まり、心置きなく日本史を勉強できるようになって、やっと英語から開放された。シスターはいつの間にか任期を終えてアメリカに帰ったらしかった。今でも彼女の「エリコ!」と呼ぶ時の声の強さと、「リ」のところだけ巻き舌っぽくなる発音を覚えている。

三年の夏に、サンディエゴの姉妹校に短期留学したとき、彼女に再会した。大学の敷地内の家をみんなで訪ねたのだ。そういう予定が組まれていた。みんなチャイムを鳴らすまで、かなりびくびくしていた。なんでここまで来て、またあの恐いシスターに会わなくちゃならないんだ、と思っていた。だが、彼女は見たことのないような満面の笑みで、私たちを迎えてくれた。笑うことなんかないのかと思っていたから、みんなびっくりした。私たちは和やかに話をし、食事をした。きれいな庭で、みんなでじゃれ合うようにハグしながら笑っている写真が、家のどこかにまだあるはずだ。

ドミトリーに戻ってから、誰かが「そりゃそうだよね。こんな広くてきれいなところに住んでいたんだもんね。毎日晴れて明るくてさ、青い空に青い海。あんなじめじめして狭い国にいるの、きっとつらかったんだろうね」と言った。サンディエゴは美しい街で、私たちはその夏、人生ではじめて、悩みが一つもない夏を一ヶ月だけ過ごした。

いま自分はあの当時のシスターとたぶん同じくらいの年になっている。ウイルスに怯えて狭い家にこもっているけれど、これはこれで静かで落ち着いている。サンディエゴをまた訪れることはあるだろうか。