うみゆり日記(新)

錦見映理子の日記です

カンヅメになる

恋愛の発酵と腐敗について 上巻

恋愛の発酵と腐敗について 上巻

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数年来、月の前半に細々した雑務(原稿や短歌講座なども含む)を済ませて、後半は小説を書くことだけに集中する、というスケジュールを組むように努力しています。

しかし昨年から、ラジオの生放送に毎週出るという予定外の仕事が始まったためにそれがうまくできなくなってしまい、お願いして今年からは4週目だけラジオは休みをいただくことにしました。そのおかげでなんとか、毎月後半は小説を書くことに集中できています。

そんなわけで今月も、少し遅くなったけど今日からカンヅメ入りです。別にホテルでカンヅメしてるわけじゃなくて、気持ちの上でカンヅメになってる、と思っているだけですが。(別の場所に移動することもあるけど今回は事情があってできない)

10月は、昨日までずっと短めの原稿や連絡を細々やりとりする必要がある仕事が重なって、全然自分のやるべきことができませんでした。いや、どんな仕事も全て「やるべきこと」なわけですが、極端なことを言えば、たいていの仕事は私ではなくてもできます。私じゃなければできないことはこの世にそれほどなくて、選ばれたごく少数の人のみが、その人にしかできない仕事だけで生きていくことができる。

なので、たいていの人は誰でもできる仕事をしながら、その中でベストを尽くして、少しでも自分らしい仕事をしようとするわけです。

ラジオの仕事もそうしてできる限りのことをしているのですが、不定期で短歌の講師役で出していただいている「さくらひなたロッチの伸びしろラジオ」の短歌回だけは、自分以外の人にはこんな風にはできないかも?と密かに思っています。短歌のことも、ご出演メンバーの一人一人のこともよく知っていて、リスナーの気持ちがわかる(だって私もリスナーと同じただのファンだから)女性の歌人、たぶん私しかいないと思う。

アイドルが短歌を作る必要は全然ないのですが、彼女たちは将来の可能性が無限大なので、この先の未来のいつかのために、芽を出すかもしれない小さな小さな種を埋めるみたいな行為として作歌や指導を考えており、全く手加減せず本気で教えるようにしています。

しかし、こうして短歌について教えることができるのは自分の力ではなくて、二十数年にわたって毎月のように出てきた歌会の場を共有してきた歌人の先輩や仲間、結社の仲間達、いくつもの短歌講座の後任に選んで下さった先輩や各講座の生徒のみなさんたち、等々のおかげなので、自分にしかできないけれども自分の力ではないのでした。

そもそも初めて出た歌会が岡井隆主催の超結社の会で、そんな最前線みたいな場に毎月私のようなどこから出てきたか不明の謎の人間(謙遜じゃなくて事実)が紛れ込ませていただいていたことが、今考えるととんでもないことだったと思う。

あの頃、どこの結社にも入れずに迷ったままひとりぼっちだった私に声をかけて下さった田中槐さんのおかげだけど、私は長い間結社に入れず無所属でいたことを、ずっと、とても不幸なことだったと思っていた。師にめぐりあえずに不運だったなあ、と。しかし今思えば、なぜあんなすごいメンバーの歌会に入れてもらえたんだろう、とんでもなくラッキーじゃないか、としみじみあの頃の岡井さんと未来の先輩達の懐の深さを思うのだった。私だったらやだよ、あんな何にもわかってないやつ(当初)が入ってきたら。

そんなわけで、私の短歌観や読む力などは首都の会に出ていたおかげで養われたものだと思う。だから短歌の仕事に関しては、ほとんど修行と恩返しだと思ってやっている。いただいたものを、少しでも生きているうちに返していく。それができるかどうかが、今は短歌の仕事の取捨選択の基準になっていて、正直に言えば短歌に関しては自分からやりたい仕事はほぼないのだった。歌をたまに、少しだけ載せてもらえればいいな……とちょっぴり思っているくらい。

それより小説を書いて生きていきたい。他には何もいらないのでした。たくさん売れなくてもいいので(いや売れたら嬉しいけどそれはもう私だけの努力ではいかんともしがたいので)、最低限本が出せるくらいの読者に恵まれて、細々とでもいいので本を出し続けられるといいな、と思うのでした。それがどのくらい大変なことかはこの数年でよくわかったので、難しいかもしれないけれど。

とにかく面白くて良いものを書くことのみならず、そうしたものを書いていることを知られる努力もしていかなくてはならないでしょう。

短歌という小さくて狭い(けどとても深い)ジャンルの中に長くいたので、急に広大な世界に出てしばらくは、何がなんだかよくわかっていませんでした。こんなに違う、ということがわかっていなかったのです。校正者だったので出版業界のことはよく知っているつもりでした。でも、実は知らなかった。著者と校正者、当たり前ですが見える景色も範囲も世界も、何もかも全く違いました。新しく目に入る世界があまりに広くて人が多く、どこを見ていいかさえわからなかった。そんなこの二年ほどを過ごして、今年は少しだけ、落ち着いて見えるようになったことがいろいろありました。

見なくていいものも、わかったのかもしれません。

短歌の仕事をどう取捨選択したらいいかというのも、しばらくかなり混乱していましたが、上に書いたように今は自分なりの基準でできるようになりました。

やっと自分を取り戻した感じもあり、そんなタイミングで『恋愛の発酵と腐敗について』が紙の本の前に無料で配信リリースするというプロモーションからゆっくり人目に触れることになったのは、今思えばよかったなと思っています。

初めてのやり方だったので、最初にご提案があった時は、少しとまどいました。

でも、大好きな平手友梨奈さんがCDを出さず配信のみでリリースデビューをしていたり、無料でネット上で期間限定試し読みのキャンペーンをされている小説をいくつも目にするようにもなったりして、なるほど今後はこうした流れが増えていくのだな、と納得できて、OKしたわけですが、当初はとても不安でした。これ、配信だけで終わりだったらどうしよう、と。

それでも、出ないよりはマシです。万一紙の本にならなくても、読んでもらえないよりはずっといい。そのうちいつか、本にしてもらえる機会もあるかもしれないしね。そう思ってお願いすることにしました。暗い性格なので、そのときはかなり絶望的な展望しか描けませんでしたが。

唯一の希望は、担当編集者のHさんが、この小説を気に入ってくださっていたことです。同年代の女性の、経験豊富な編集者ということもあり、とにかく最初の読者になってくださったHさんに、全てお任せしよう、と最終的には決めました。

どん底の気分で決意したわりに、実際リリースされてみたら、三回の連載ものみたいに、反応がいろいろあるのがとても楽しい。見るたびに変動するランキングなんて、配信でしか味わえない面白さです。リリース以来、無料も有料もランキングの上のほうにずっと入っていて、本当にありがたいし嬉しい。

せっかくなので、このAppleBooksのプロモーション期間を楽しもうと思っています。

よかったら、今のうちに無料の上巻だけでも試し読みしてみてください。

恋愛の発酵と腐敗について 上巻

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